ビクトリノックス謎の帰還

先日(1月10日)、ブログに謎めいたことを書いたので、あれはいったい何なのだというお問い合わせをいただいております。
もう少し詳しく状況を記述いたしましょう。

2003年5月にオーストラリアへサンプリングに行きました。

まず、関空からシドニーに飛び、国内線に乗り換えて共同研究者のいる北部の町ダーウィンへ向かいました。ダーウィンで採集計画の再確認を行い、それ以降は、オーストラリア国内を小さな飛行機や、チャーターした飛行機、ヘリコプター、自動車などでノーザンテリトリー州と西オーストラリア州を中心に移動と採集を繰り返しました。最後はパースからシドニー関空と帰ってきました。

さて、ブログに書いた一件はオーストラリア国内での採集が始まったばかりの時、ダーウィンから小さな飛行機に乗ってクヌヌラという田舎町に向かう間、に起きました。

搭乗ゲートでデイバッグの中を確認されて、ビクトリノックス(いわゆる十徳ナイフです)は持ち込めないと言われ、取り上げられてしまいました。愛用の一品です。当時は常にデイバッグに入れていました。

搭乗直前で引換券などももらえないし、大丈夫かなと不安がよぎりましたが、小さな飛行機で乗客も少ないので、まあ、券がなくても識別できるのだろうと考えて、ビクトリノックスを預け、乗り込んだのでした。
さて、クヌヌラに到着して大きな荷物は無事に受け取れたのですが、ビクトリノックスは出てきません。問い合わせても、埒があきません。
もう少しは粘りたかったのですが、タイトな採集スケジュールが控えているので、「ええい、呉れてやるわい、せいぜい大事に使ってくれ」、と心の中で毒づきながら諦めたのでした。
その後は、もっと小さな飛行機や、

ヘリコプター、

そして、ランドクルーザートヨタランドクルーザーは絶大なる信頼を得ています)

等を乗り継ぎ、数千キロ移動して採集を終えたのでした。もちろん、クヌヌラ以降、ビクトリノックス君とは生き別れたまま、旅行を終え、日本に戻ってきたのでした。
クヌヌラで失う前はいつも携帯していたのですが、それ以降は、ビクトリノックスを持ち歩くという習慣自体がなくなってしまいました。

そういったものが、ある日突然、目のまえに現れたのです。京都の研究室で!

これです。こういう時にこそ、ヒトは目が点になるのでしょう。あちこちの痛み具合、キズも記憶に残っているビクトリノックス君そのものです。クヌヌラで失ったものに間違いありません。
広島の研究室の隅に転がっているところを学生が見つけ、「さては引越荷物に入れ忘れたな」と気を利かせて届けてくれたのでした。
つまり、このビクトリノックス君は2003年5月にクヌヌラで行方不明になったのですが、いつの間にか東広島市まで戻ってきており、それから数年間、持ち主が気付かない状態で、研究室の隅に潜んでいたのです。
これは一体どういう事でしょうか?
まず考えられるのは、クヌヌラで失ったと考えたけれども、じつは、空港職員が気を利かせて、鞄の中に入れておいてくれた、という可能性ですね。しかし、これは、まずないでしょう。クヌヌラ以降1週間以上オーストラリアで鞄を持ち歩き中のものを出し入れしているわけで気付かない事は無いでしょう。
また、決定的なのは、このタグです。

なんと、失った日の日付でクヌヌラから関空へ送られています。持ち主がオーストラリアをうろうろしている間に、ビクトリノックス君は一人寂しく関空へと向かっていたのでありました。

しかし、一体どうして、持ち主の元に届けるのに関空がベストであることがわかったのでしょうか。航空券は日本からオーストラリアまでのものは私たちが準備しましたが、オーストラリア国内のものはすべてオーストラリアの共同研究者が準備してくれました。クヌヌラ空港で持ち主に渡し損なったと気付いた空港職員はどのようにして持ち主を特定して、そして、持ち主に返すには関空に送ればよいとわかったのでしょうか?旅行中に使う一連の航空券が冊子となっていて、旅程が一目瞭然という状態であれば、一枚の航空券から前後の旅程をたどってゆくことができるでしょうが、そうではないのです。

クヌヌラ着の飛行機の中では珍しい東洋人ということで名前を割り出し、その切符を手配したオーストラリア人の共同研究者の大学に問い合わせたのかもしれません。それであればビクトリノックス君が関空に向かったことも理解できますし、最終的な届け先が東広島市であるということもクヌヌラの空港職員にはわかったはずです。

しかし、研究室では上の写真の状態で潜んでいたのです。封筒に入っていたわけではなく、関空行きのタグがついただけの裸の状態です。一体どのようにしてこの状態で関空から東広島市の研究室、C棟4階の西端までやってきたのでしょうか?誰が届けてくれたのでしょ〜か??